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山荘流茶道教室は、京都市東山区で開講している茶道教室です。

流祖 高谷宗範

料理イメージ
高谷(タカヤ) 宗範(ソウハン) 恒太郎(ツネタロウ)


嘉永4年(
1851年)〜昭和8年(1933年)は大分県府内藩に生まれ、検事・弁護士として活躍した茶人。
宗範はその茶名で、他に桂堂・楽只庵・如瓶斎・子民などと称す。



生涯

高谷恒太郎(宗範)は嘉永4年8月25日に儒学者である父龍州(りょうしゅう)、母ミス(寿美子とも)の長男として産まれました。宗範は幼い頃は腕白であった為に、母親に

「菅原道真公は承和12625日のお生まれである。年代は異なっているが同じ25日に生まれた以上、その学業、性行とも道真公の御神霊にあやかり将来日本に指折りの男とならなければなりません」

とよく怒られたと伝わっております。

しかしそんな宗範にも大きな転機がおとずれます。明治6年、父親(中津藩の生まれ)の親戚であった福沢諭吉氏のすすめにより東京に出て勉学に励み、翌年大蔵省へ出仕し、その後判事補、検事などとして活動していくことになります。その官吏生活の中では明治19年にドイツへ法律の調査に行っております(この経験が後の山荘設計に影響を及ぼしていると考えられます)。

明治26年判事を辞し、弁護士としての活動をスタートさせます。当時兵庫県、灘の酒家銀行にあった整理を皮切りに、会社の顧問弁護士などとして活躍します。そこで関西の財界人と接点を持ち、彼らとは後に共に茶道での交わりも深めていくこととなります。

大正8年には弁護士活動を辞め、茶道に専念します。各地の茶会に参加し、各流派の研究を行い、財団法人松殿山荘茶道会および山荘流の創始へとつながっていきます。

その後は茶人として活躍しますが、昭和8年2月17日大腸がんで亡くなります。




茶道との関わり


元々胃腸が弱かった宗範は官吏時代のドイツ出張で更に状況が悪化してしまいました。その為ドイツから帰国した宗範は、養生を兼ねて茶道を習い始めます。初め遠州流の流れを汲む青木宗鳳流(青木宗鳳流の流れの遠州流とも)を平井治郎右衛門氏(貯月庵)に、後に小堀宗舟公(小堀遠州流12代家元)より遠州流(現在の小堀遠州流)を習うことになります。

しかし当時の茶道界の状況を嘆き、自身で一派を設立すべく大正7年に京都府の宇治木幡に土地を購入し、そこに「松殿山荘」という茶道の道場を建設を開始します。また昭和3年には財団法人松殿山荘茶道会を設立し、書院式茶道を広く一般に伝え、国民道徳の向上を図り、茶道によって国の発展に寄与するために活動していくこととなります。

しかしそんな宗範の考えに対して批判的な意見を持つ人たちも少なからずいました。その代表的な人物が高橋箒庵氏です。箒庵氏は『茶道月報』という雑誌に「おらが茶の湯」という文章を寄稿され、

「茶の湯は本来趣味である」、「書院の台子茶などというのは原始時代の形見で、宗匠連中は心得て置かねばならぬであろうが、それが世間に流行らぬのは、草庵侘茶の趣味が、それより遥かに面白いためである」と主張されました。
ただこの論争自体は決着を見ることなく不毛なままに終わってしまいました。

一方の立場を継承している者が客観的に論じることは難しいですが、私なりには「主張などの説得力や一貫性には法律家であった宗範に分があると見えるが、その後の茶道の状況や宗範の主張に共感しその路線を継承する人がほとんどいなかったところから箒庵氏の主張に分があったと言わざるを得ない」と考えております。
 
しかし宗範も趣味としての茶道を否定していたわけではなく、多様な茶道のあり方を認めています。宗範の跡を継いでいく者として茶道から得られるものを大切にし、一人でも多くの方に茶道の素晴らしさを知って貰えるよう活動していこうと思っています。


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山荘流茶道教室

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